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演劇デザインギルドニュースレターでお伝えできなかった詳細を、このページでお届けいたします

花崎攝よりロンドン帰国報告
登呂遺跡 わからないことを想像するのがおもしろい 成沢富雄2010.12.22 
2010年をふりかえって

2009.12.26 2009年をふりかえって

2008.12.25 今年をふりかえって
2008.05.15 成沢富雄
2007.11.25 すずきこーた
2007.10.21 福原忠彦
2007.10.20 すずきこーた

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花崎攝よりロンドン帰国報告   花崎攝

1年間のロンドン滞在を終えて帰国しました。
お蔭さまで、とても充実した時間を過ごすことができました。 ロンドン大学、ゴールドスミス校でクロスセクトラル・アンド・コミュニティアーツのマスターコースに通い、コミュニティでさまざなアートを活かしていく際に留意することについて、具体的には企画から実施までのプロセスを点検し、いかに評価して次につなげていくか、
改めて学び考える機会を得ました。そのコースでは演劇、美術、音楽など専門分野の違う人たちといっしょに授業を受け作業をしました。 他に私の専門である応用演劇専攻の大学院のセミナーにも参加させてもらいました。
そこでは多彩な講師を迎え、学生たちがさまざまな資料にあたり、活発な議論がおこなわれていました。
研究の蓄積の一端に触れることができて、とても刺激を受けました。 そして、2つの劇団の門をたたいて無給のスタッフとして働きました。
ひとつはホームレス(広く住む場所に困っている人たち)と演劇づくりをしているカードボード・シティズンズという劇団。芸術監督のエイドリアン・ジャクソンはアウグルト・ボアールの本の英訳者でもあり、ボアールの被抑圧者の演劇の方法に精通しており、彼と彼の劇団のスタッフからたくさんのことを学びました。 もうひとつはとクリーン・ブレークという女性劇団です。
そこは、受刑経験のある人たちとアルコールや麻薬から抜け出そうとしている人たちを対象に演劇による再生を手助けする教育的な活動と、上記のような境遇に陥ってしまった女性にかかわる問題を女性劇作家に委嘱して新作上演する活動、そして刑務所での女性に対する差別的な扱いを是正するように呼び掛けるキャンペーンの3本柱で活動しています。
上演作品は非常にインパクトがあり、同時に教育的な演劇活動が人々の再生にとても大きな力を発揮していることに大きな感銘を受けました。 ロンドンと日本の状況は大きく違いますし、殊に3月に留守にしていたので、まだまだ戸惑いもありますが、だんだんにロンドンでの経験を生かせるようにしていきたいと思っています。

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あめ通信・262(2010年最終号)掲載
登呂遺跡 わからないこと想像するのがおもしろい
   成沢富雄  登呂遺跡のことは、漠然と知っていただけでとくに詳しいわけでもありませんでしたが、高校時代のクラスメートに森君という人がいて、彼のお父さんが登呂遺跡について関係の深い人であるということをたぶん彼から聞いて知っていました。おそらくそのお父さんというのは毎日新聞記者の「森豊さん」だったのだと思いますが、事前に登呂遺跡について知っていたのはその程度。で、登呂遺跡というと水田遺構と竪穴住居のわらぶき屋根のイメージですね。今からふりかえると素朴な牧歌的な、人々が助け合って暮らしている原始共産制のイメージとも重なっていたように思います。
 3年ほど前のことですが、私は埼玉県所沢市で有志による「まちづくり活動」に加わっていましたが、そこで出会ったまちづくりコンサルタントの人から、静岡市の登呂遺跡に関連して演劇ワークショップをやってもらえないかという話がありました。国土交通省のまちづくり交付金を使って行っている登呂公園周辺の街路整備の仕事の一環で、市民が登呂遺跡に従来とは異なった形でかかわる仕組みをつくりたいとのことでした。
 演劇そのものよりも、演劇と他の領域が交差して何か新しい認識が見出されること、それを関った者達が享受することに楽しみを見出している私は、即座にやってみたいと思いました。
 出発点は、登呂に関する資料を読むことです。あらためて資料をたどると、登呂遺跡の発掘は昭和18年に軍需工場の建設に伴って、地下1メートルから丸木舟や木製品がゾクゾクと出土したことが始まりとのことです。戦後になって、神話が歴史と言われていた時代をふりほどくように、新しい歴史認識を実証してくれる登呂遺跡は、考古学と市民社会の双方で必要とされたようです。考古学が人々に必要とされ、皆が手弁当に近い形で参加しました。発掘が開始された昭和22年当時、中学生達も「古代史研究学徒会」という会を結成し、いろいろな学校から参加していました。
後のワークショップの中で聞いた話ですが、「発掘している様子の写真を見て、森と言う新聞記者が『ああ、新しい時代が来たんだ』と言ったんだ」と当時発掘に参加した元中学生は嬉しそうに話しました。その「新しい時代」という意味は、男子も女子も同じ場所で同じ時間一緒に作業していることなのです。いまでは考えられないことですが、麦藁帽子をかぶって手拭を首にした男女が一緒に作業している空間が実際に目の前に出現している、戦争前ではありえないことが起きている、その解き放たれた喜びが、お話から静かに伝わってきました。
「くわに、シャベルとか、竹べら使ってやりました」
「私は根っこばかりだっけど、勾玉を見つけた人もいた」
「学校で教わったことと、全然違うことをやっているので、なんか世の中が変わってくるのかなと言うことを考えて、楽しかった」
「夏休みに 発掘しながら、女の子と話すことが出来る」
「おばさんの家に居候しながら、発掘に行きましたよ」
「楽しいから、夏休み中毎日通ったのよ」
「お母さんが、お弁当作ってくれてご飯と出し昆布の煮詰めたものです」
「登呂名物のスイトンは、スイばっかりでトンがない」
「文化国家ニッポンというには恥ずかしいことだけど国に金がなかったから、中学生が寄付をするっていう感じでした」 ですから古い昔に関してだけでなく、近現代の歴史としても「登呂」は重要なんだと思います。市民と学問のつながりという意味においてですが、1960年代だと思いますが、ナウマン象の骨が出できた信州の「野尻湖総合調査」も、そういった意味では画期的な調査でした。これにも沢山の市民と学生が参加して行われ現在も継続中ということです。また最近では琵琶湖博物館が設立される以前から市民との共同作業を行い、自然史から見た琵琶湖の成立や人々の暮らしとの接点について、市民が加わって研究が進められていたように思います。
自然科学の研究が専門家のものだけではなく、市民の必要・興味と結びつき、展開される事例はとても大事な事です。国家予算を使っての巨大科学も必要かもしれませんが、野尻湖のケースように、成果は発掘に参加した人のものという公開性・平等性はその学問が多くの人の必要に支えられている証拠です。
登呂遺跡は、市民と学問のつながりという意味で魁としての役割はありましたが、その後話題性という意味では吉野ヶ里遺跡や縄文時代の三内丸山遺跡などが有名になって、あまり省みられなくなった事も事実です。市民参加の総合調査を組織できるほどの関心ももうすでに引かなくなっていたと思います。
しかし、その登呂遺跡ですが、今回考古学の専門家の方々と散歩しながら話を伺ったり、実際に土器をつくってみたりすると、魅力に欠けているのでは…と思われていた遺跡が、どうも市民に知らせていない、あるいは市民も聞こうとしないために、知られていない面白い話が沢山あるようだと思いました。
何故、歴史は進む(?)のか、あるいは何故人の暮らしは変化を望むのか、変化の原動力とは一体なんなのか、そんなことも頭のどこかにチラッと浮かんでくるお話がいろいろ出てきました。 登呂遺跡は静岡駅から石田街道を2km南下しそこから東に300mほど入った場所にあります。登呂から海岸は東名高速を越えて1.5kmほどにあります。一見するどこまでも平坦な土地の様ですが、わずかな高低差があり低いところにある住宅はどこも道路の高さから一尺ほどの地上げを欠かしていません。基本的には安部川や藁科川の自然堤防や後背湿地ということになります。地下水位は高いので掘ると水がでてくるようです。そのような土地にわずかな高み(自然堤防)を見つけて、そこを道や住居にして、低地に水田を切り開いていったのでしょう。
現在、登呂遺跡から北へ約1km駅よりに静岡新聞社の十数階建ての社屋があります。その最上階の喫茶ルームから南側を眺めると登呂遺跡が住宅地の中に、そこだけムラのようにぽっかりと緑で覆われて三角形の竪穴住居が点在しています。さらに目を遠くにやると海が見えます。そこから東に視線を送っていくと、久能山(日本平)が見えてきます。登呂から久能山までは1.5kmから2kmくらいでしょう。大雨や大洪水時に逃げ込む高台だったかもしれません。さらに東北に近い位置には有東遺跡(うとういせき)のある市立商業高校周辺、さらに行くと小高い有東山や八幡神社(やわたじんじゃ)がある八幡山が見えます。有東山や八幡山は以前は海中の島でした。氷河期が終わって隆起が始まり、安部川や藁科川から土砂が供給されて現在の様に、平野の中に突然ぽっかりと現れた丘の様になっています。この場所は、おそらく当時のムラ人たちは、物見や祭りに古くから利用したのではないかと想像させる位置取りなのです。この八幡神社の傍の微高地だったところに沿って久能街道が南東に通っています。
登呂遺跡しか頭になかったのですが、登呂に先行した弥生時代の遺跡があると散歩の時に知らされました。その細かい時代区分によりますと、BC200年からAD 0年頃まで続いた弥生時代中期の有東遺跡が、弥生時代後期の登呂に先行する遺跡だということです。有東遺跡では、住居跡、それから墓地が発掘されています。登呂遺跡はAD 0年頃からAD200年くらいまでと言われているので、キリストの生誕を挟んだ前後200年の400年間が、今話した二つの遺跡群の該当年代になります。
この登呂遺跡に先行する有東遺跡は、同時代の墓地が発掘されていて、それが関東地方にもゆかりのある方形周溝墓という形式のお墓です。土を3mから5mほどの辺を持つ台形に盛上げ、周囲に溝を掘ったお墓で、頂部の平坦なところに人がひとり入る棺桶のような穴を開けて、そこに埋葬されているそうです。それが住居跡の周辺に多数発見されています。で、関東地方とは違って、ここでは副葬品なども含めて埋葬の仕方に差が見られないということでした。それから類推が始まるのですが、有東の時代は、あえて人々は平等に暮らす文化を保持していたと、専門家は想像しているようです。
また、有東遺跡からは鉄器を使用した痕跡がないということでした。まだ磨製石器や黒曜石の石器と土器が生活道具として基本だったようです。登呂遺跡からは鉄器は出土していませんが、明らかに鉄器で加工した木製品が沢山出ているので、このAD 0年頃に、鉄の普及により生産システムや社会構造が変化したに違いありません。登呂遺跡の時代の人々の墓は、一つも見つかっていないのです。またこの時代に登呂遺跡以外にも様々な遺跡が有東遺跡の周辺に出現し、そのときには有東遺跡の範囲は小さくなっているとのことでした。この弥生時代後期には西日本では吉野ヶ里遺跡に代表される小国家のような単位の社会がすでに全盛を迎えています。登呂遺跡の時代をそのままたどると古墳時代というその土地の支配者を埋葬し、巨大なお墓をつくる社会にたどり着くわけです。
登呂は少なくとも二度洪水で水没していますが、そのたびに復旧工事をしてもとに戻しています。その時に田のあぜを補強した数千枚にのぼる矢板は、鉄器で加工されているようです。いままで漠然と人々が協力していた社会と思っていましたが、加工された矢板の量、墓の不在、こういうことをあわせて考えると、登呂遺跡が単純に家族単位で牧歌的な暮らしを数家族が営んでいたというイメージではなにかうまくあいません。すでになにか支配的な社会関係が存在したと考えたほうが、つまり例えば極端ですが奴隷労働による農業生産という姿を予想したほうがもしかしたらあってくることも考えられます。
果たして、有東遺跡にいた人が移り住んで登呂遺跡になったとしたら、その時に鉄器はどこから手に入れて、誰が供給したのか。有東の中の誰が移って誰が残ったのか。あるいは有東とは別の種族、見知らぬ人々が鉄器を抱えてある日登呂遺跡にムラを作り始めて、やがて有東の人々はそこに吸収されたのだろうかと、こんな想像をしてしまいます。 ワークショップの中では、土器も作って見ました。博物館で土器づくりを指導している人に一応おそわりながら午後の3時間ほどでしたが、大人だけでなく小学生も混じって粘土細工を必死に、珍しくおしゃべりもなく、取り組みましたが10人中なんとか土器の形にできたのは一人だけ、それでも大半の未完で愛着のある土器モドキも含め、自然乾燥に一ヶ月費やして、野焼きをしました。結果は残念ながら全部バラバラになって、土器として完成したモノは一つもありませんでした。しかしこのバラバラも、発掘される中には同じようなものがでてくるということを聞き、昔もベテランばかりではなかったのだとほっとしました。やはり土器作りには熟練がいるのだということがよくわかりました。
完成した土器ですが煮炊きなどで火にあぶられた場合20回程度で割れてしまうという実験考古学の結果を聞き、それでは相当数のストックを暇な時期に、そう例えば農閑期があってそれが冬だったら、みんなで冬に火を囲みながら一斉に作るということもあったのかもと思いました。また場所によって特徴が決まっている、つまり静岡のあたりの登呂式土器と、沼津や富士、そして西の大井川あたりの土器とは特徴が違うのだそうです。
土器は時期と場所によって様々な名称がつけられ区別されています。そのために、弥生時代の後期、つまり登呂遺跡のムラが暮らしを立てていた時期に、遠江つまり浜名湖や浜松あたりから、神奈川県の相模川流域、鶴見川流域に、丸木舟(?)で海を航海して渡ったのだろうと思いますが、そっくりの土器型式を持った人々が家族単位で移住したと出土した土器から推測されています。
富士火山の噴火による火山灰の降下で無人になってしまった地域に、人々がある情報を頼りに家族単位の移住をする。こういうことが成り立っているとすれば、相当広域で人の移動と交易が日常的に行われていたと考える他ありません。
土器の型式がこんなに輪郭はっきりしているということは、なにか工房とか一連の熟練した工程の中で土器が製作されていったのではないだろうかと推測させます。集落内で分業が始まっていたと考える事も可能でしょう。
土器の模様についてですが、縄文から考えれば一万年以上続いた土器づくりの伝統ではありますが、縄文土器として紹介される八ヶ岳のふもと井戸尻の土器群の表面は、ヘビやカエル、日月を模したりする紋様で埋められています。実用というよりあきらかに何か自然と対抗しようとしたり拮抗させたい思いが模様に含まれているように思いますし、このような紋様は中南米の先住民の土器の模様とも近い。それに引換え弥生時代の土器では模様は実用半分、つまり持ったときのスベリ止めだったり、識別のためだったり、置いた時の安定感や傾けたときの水の切れやすさなどが考慮されていたり、外界の自然との関係は切れているように思います。
すでに自然については、人がその胎内にいるという意識から、弥生では自然を相手にしているという意識に変化していると考えられるという説もあります。自然に対して身構えることよりも、他の集団、他の人間のもたらす技術や情報に対して敏感になって暮らしているのではと、登呂の時代を想像するようになりました。家族単位で牧歌的な搾取のない原始共産制のイメージはくずれ、ダイナミックな変化の中で右往左往する私たちとさほど変わらぬ人々の像が浮かんできています。また、家族といっても、それは一夫一婦制か?それとも母系制だった可能性は?すくなくとも古代の戸籍には母系家族を無理矢理、男の戸長を筆頭にしたものに作り変えてつじつまが合わなくなっているものが見受けられると聞きました…また中国の四川省納西(ナシ)族の中の摩梭(モソ)族は、いまだに母系制を保って暮しているということですが、この頃の家族が母系であったとする可能性も考えられます。すると、有東のムラを母系制のムラ、鉄の導入(?)のあった登呂のムラを父系制のムラ、あるいは、家族がなくなってしまった囚人たちのムラと考える事も、強引ですがありうることです。
有東のムラが専門家の言うように平等を文化とする社会であったとして、それはあえて中心をつくらない社会だと思います。それに対して、誰がが突出して中心を作り代表者が現れないと、他集団例えば西方の鉄器を持った集団との交易が進まず、多くのムラビトの欲望、希望が満たせない社会に「鉄」が引きずり込んだとも言えるのかなと、これもなんだか現代を引き写しているような想像ですが、してしまいます。ですから、この先はこの「登呂の物語」を劇にして、動かしてみる実験にとりかかり、その中でさらに検討したいと考えています。

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2010年をふりかえって

★すずきこーた★
2010年ももうじき終わろうとしています。
いつも仕事がひとつ終わると次の仕事が待ちかまえていて、
直前に行っていたにも関わらず、
遠い過去の出来事のように感じてしまうことも多々あります。
「え?それ今年だったっけ?」みたいな。
このニュースレターがキッカケで、毎年予定表を1年分ふりかえる事が出来ます。
とは言っても、全ての事をここに書くわけにはいかないので、少しだけ。

とても大きかった出来事は、また1人友人を失ったことです。
去年に引き続き、Cerro Huachipaのメンバーの1人、Danteが天国に行きました。
友人の死を悲しみつつ、今後私たちがどのような方向に向っていくかを考えています。

もうひとつ大きかった出来事は、帰ってきたばかりと言うこともありますが、
インドネシア・アチェでのWSです。現地の事情(自然災害や治安の問題)もあり、
去年行うはずだったWSが今年の年末になってしまいました。
それでも、諦めずに出来て良かったと思っています。
早い段階で参加者の子どもたちと紛争について触れられたこと、
過去の参加者がジュニアファシリテータとして参加してくれたことなど、
ここではとても書ききれません。近いうちに報告が出来ればと思っています。
平和構築というよりは、平和維持をどうするか、
そんな事を考えたWSだったと私は思います。

皆様、良いお年をお迎えください
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★開発彩子★
去年の秋冬から、ここ数年のやりかたを脱ぎ捨てるような「もがき」が続き、
「ここでひとくぎりだ。」と一呼吸入れたのが今年9月半ば。
そして「けっこう必死」な日々は来年春まで続いていきます。
なので、今年1年、というくくりで生きてない1年。というのが今の実感です。

今年面白かったこと。
初めてボイストレーニングの先生について習い始めたのですが、
たくさんの発見があります。呼吸などヨガに通ずるものがあったり、
非常に興味深いです。
今まで深く考えずに歌ってきました。
しかし声を出すということは
自分の中で革命がおきる位の行為になりえるのではないかという予感さえしています。

そして自分の身体の癖や思い込み、弱点をみていくことは、
びっくりするほど自分の性質、
生き方そのものに気づかされる作業だということを知りました。
自分の身体と向き合う=自分の生き方と向き合うことなのか?!などと模索中です。
レッスンを受けるには小額でないお金がかかりますが、
その分、人から何かを教わる、自分を客観的に見てもらうというのは非常に贅沢、
幸せなことだと思います。
私は美術の先生をやったりワークショップを進行する仕事をしていますが常に
相手にそのように感じてもらえる時間を作っていかなくてはならないんだと思います。

ということで突然ですが今興味が向いているのは武道。これもチャレンジしてみたい。

さて飽きっぽい私がどこまでいけるか、、、。
来年は「向き合う人」を目指したいです。
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★花崎攝★
秋からロンドンに居を移して3カ月になろうとしています。
大学院に通いつつ元気なコミュニティーシアターを中心に芝居を見ています。
あまりにも知らないことが多すぎて、目から鱗が落ちっぱなしです。
もっと早く勉強したかったとの思いもありますが、
少しばかりの実践経験が幸いして、議論の内容が具体的に理解しやすく、
’鱗’がすぱすぱ落ちて、視界がどんどん明るく広くなっていく感じです。
指定されている資料の量に青ざめ、英語で論文が書けるのか…と
今から黄色信号が灯る不安を感じつつ、
11月にはボーアルの実践経験豊富なカードボード・シティズンズという劇団の
フォーラム・シアターのワークショップにも参加。
その蓄積と明確な方向性、そして実践的な内容に感服しました。
彼らについてはもう少し調査して追って詳しくご報告したいと思います。

12月には、延期になっていたインドネシアのアチェでの
3年(実際には4年)がかりのワークショップの
一応の完結編にも出かけてきました。
ロンドンからドバイ経由、なんと4つも飛行機を乗り継ぐという
かなりの荒技を使って、アチェの州都バンダ・アチェへ。
いまや信頼できる仲間であるコミュニタス・ティカール・パンダンのスタッフと
総力をあげて、紛争を経験した3つの地域から集まった30人の高校生と
ワークショップをしました。
1回目2回目の参加者の内6人が今回はジュニア・ファシリテーターとして参加し、
地元の演劇や心理学を勉強している大学生たちも
ローカル・ファシリテーターとして加わるという手厚い布陣が実現して、
参加者たちの具体的な紛争経験に踏み込む表現を引き出すことができました。
紛争の経験を表現し、自分だけでなく他の人たちも
同じような経験をしてきたのだと知って、
「気持ちがすっきりした」、「安心した」という声が参加者から聞かれました。
地元シャクワラ大学の心理学の専門家からも
紛争時に負った心理的な傷をいやすのに非常に有効だとの見解をいただきました。
3回目でようやく当初の目的になんとか辿りつけたかなと思います。
さらに活動を続けてほしいとの要望も受け、是非続けたいのですが、
国際交流基金の企画としては区切りなので、新たに助成団体を探すなど
資金面をクリアしなければなりません。
なんとか方策を考えたいと思っています。

ロンドンは真っ白な雪景色です。
みなさま、よいお年をお迎えください。
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★福原忠彦★
仕事が襲いかかってくるような一年でした。
自分の中の今年のテーマは
「葛飾で友だち100人つくること」と
「お金を稼ぐための勉強をすること」。

葛飾区市民活動支援センターの常勤職員となり、
組織で働くことの大変さと楽しさを知りました。
責任も仕事量も半端ではありませんが、
周りから信頼され、
大胆にいろいろなことをできる
環境になってきたのはありがたいことです。

特にまつりの事務局長みたいなことをやったので、
葛飾区に沢山の知り合いができました。
地域の課題に向き合いながら頑張っている人たち。!
20代、30代の若い人たちともつながることができました。
来年は若い人たちで何かできないかと考えています。

仕事が忙しかった分、演劇活動は控えめになりました。
「いつ どこで 誰に なにを どのように伝えるのか」
来年も地に足をつけて、
表現をしていきたいと思っています。
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★竹森茂子★
それにしても、時間の経つのが早い!
時間の使い方がなってないような、そんなことどうでもいいような・・・。

今年は、地方自治体の市や県の男女共同参画課の仕事が多かった。
女性たちと一緒に自分の問題として家庭や子育てや地域のことをWSし
小さな劇を作ってきた。
子供時代のことや未来の自分に語りかけたり・・・。
やりながら、自分の中に潜んでいるジェンダーに気づく場合もあれば
気づかない場合もある。

ジェンダーの視点で社会の構造を具体的に演劇にするって簡単じゃないよね〜。
本当に細胞レベルで深く深く内面化されているジェンダー意識・・・。
生活の暮らしに慣習化されて「普通」のこととして、
語られ行われて見過ごされてしまうことたち。

演劇WSで、小さな出来事やしんどいことを自分の言葉で語りながら
普遍的なこととして問題を明らかにしていく―。
地道でカタツムリの歩みくらいなことだろうけど、
うにうにしながら自分を見失わないで、そこに在るおかしさや楽しさを
ブラックな語り口で作り上げる仕事が今年やりたかったことなんだけど・・・。

来年もやっぱり、ジェンダーの視点をさらに磨いてじっくりとやっていくさ〜。

20代後半になった息子に「あなたはよくよくアウトローな人ですね〜。
これからもそうあり続けるんだろうな・・。」と言われた。それも突然・・・!
いったい、どういうことだったんだ?!
(中身についてはまあ、納得するけど・・・)

後、今年は2500M〜3000M級の山に結構たくさん登ったぞ〜!
来年、エベレストの4500Mくらいまでで良いから行きたいぞ〜!!
行くぞ〜・・・。
---
★成沢富雄★
一年を振り返って、みても、なにも思い出さない…に近い。
いつも目前の事、一杯で、終わってみれば、杞憂にすぎないことも
その前では、嵐のように見えている。

年末から直接に年明けになってしまう…区切りのつかなさを
来年も迎えるだろう。

理念で、守るべきと信じられていた事が
わりとやすやすと、自分の中で崩れてしまって
ああ
くずれてしまった人は、わたしだけではないはずだ。
憲法の条文に再び信ずるに足るマグマを
送り込むために、他者とのバトルは必要だ。
見晴らしを獲得するためにも…
---
★嘉仁ひかり★

毎年この時期に、この一年を振り返ろうとするのですが、
「なんか特別なことあったっけ?」というのが、正直なところです。
みんなよく書くことあるなぁと思いながら、このニュースレターを編集しています。

そんな中でも目立つトピックといえば、からだの当たり年でした。
目の中に天使の輪っかが見え、きらきらした光がまぶしいと思っていたら、
網膜にまたしても穴が開いていました。
そうかと思うと慢性的な膀胱炎で、泌尿器科に通いつめる日々。
病院漬け、クスリ漬けの1年でした。医療費がかさむかさむ。
今も耳鳴りがひどいので、この年末は耳鼻科行きですかね・・・。

しかしそんな中で、いいこともありました。
11月に行った小学校1年生の子たちとの劇あそびでは、
オオカミが来ても大丈夫な「3匹のこぶた」の家をみんなで劇にしてつくりました。
困難な状況に直面した時、人は戦うのか?懐柔するのか?やり過ごすのか???
子どもたちが表現したさまざまな家の工夫を楽しみながら、
そんなことを考えてました。
子どもたちは、紛れもなく未来の宝ですが、
その昔、宝だった大人たちのことも考えます。
そして私もその一人だということも。
でも生きているとそのことを忘れてしまいそうになります。
忘れないようにするにはどうしたらいいのでしょう?

来年は、もっと子どもたちと演劇していろんなことを考えたいです。
それから、今の大人たちに必要なことを、もっと考えて実現していきたいですね。
よいお年を!
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2009年をふりかえって ☆成沢富雄☆
 2009年を振り返っても とくに何か始まったり終ったりはしていないような
でも、少しずつ、何かが剥がれて、また何かがくっついて、そうして、漂うイカダのような感じだ。
 どこに流れていくのか、まだわからない。
 ところで、からだだけは故障が続出。血圧185を始めて記録。なにやら腎臓もどうもおかしい。
 厄年60歳果たして乗り切れるか
  などという老人的感想でした。
★すずきこーた★
 今年は、新しい発見の多い年だったと思う。主には保育園でのことであるが…。ハロウィーンの大きなカボチャがあるとか、クリスマスのイルミネーションが園内に飾ってあるとか…。自分が保育園に行っていた時もこんなだったのか?いや、違うはずだと、驚きの連続である。
 2年続けて小学校の同じ先生(受け持ちの学年は変わったが)のクラスで、学習発表会に向けての演劇を子どもたちとつくれたことも印象に強く残っている。どんな人と演劇をつくっていても楽しいが、やはり子どもとつくる演劇は、また格別である。
 一緒に演劇をつくっていた、Cerro Huachipaのメンバーの一人、アウグスト玉那覇さんが亡くなったのも今年であった。私たちにとって大きな悲しみであった。が、Cerro Huachipaが朝日新聞に取り上げられたり、例年以上に いろいろなところに呼ばれて公演できたのは、彼がいたからではないかと、思ったりもする。彼の思いは、私たちの活動の中にしっかりと生きていると思う。
 来年は、どんな年になるのか?今年よりは子育てが楽になるのか?いろいろ楽しみである。
☆竹森茂子☆
 昨年11月のパトリシア・アリサ(コロンビアの女性演劇人)との共同で行ったワークショップ以来、今年は女性のための演劇WSが幾つかやれたことが嬉しかったし、楽しかった。ラップ・マム+の「アナアキ・ストッキング」と名づけた小さなカフェ公演もどきも2回出来たし。朗読WSと言う新しい試みも、取りあえずカフェ公演までしちゃったし・・・。
 フォーラム・シアターは、キャンパス・セクシャル・ハラスメント全国ネットワークや大学との仕事として定着?してきたように思うが、上演形態の難しさを感じた。各大学の防止委員会なりが人集めをでききれないようなのだ。学生はハラスメントに対して、深刻でない場合は、自分たちで乗り切っているつもりなのか?参加者も今一・・。大学側も、組織防衛に走りやすいと言うことも考えられるし・・・。真面目にやっている先生方もいられるのにな〜。一緒に考えていかなくてはと思いつつ・・。「・・・。」が多いな〜。
 ギルドとしては、来年はどんな展開があるのかないのか? 何を創り出したいのかだね、ホントになにを?!
★福原忠彦★
 とにかく慌ただしい一年でした。その中でもやりたいことがふたつできました。
 4月の『おばあちゃんの庭調査団』。近所の人たちが集まって、我が家の庭にある植物を調べ、マップを作り発表。おばあちゃんの話を聞きました。参加者はもちろん、協力してくれた家族がすごく喜んでくれたのが印象的でした。翌日、水俣から地元学の吉本さんが「よくやった」と一言電話をかけてきてくださいました。
 そして、7月から9月にかけての『立石散策劇場』。取材をした町の人たちの前で、町歩きをしながら演劇をすることができました。ワークショップのメンバーと一緒にドキドキしながら取材体験を伝えました。初めて立石に来た人にも、住み慣れた地元の人にも新鮮なやり方で立石の魅力を紹介できたのではないかと思います。
 地域のことに少しずつ詳しくなり、頼れる知り合いが増えてきて、ゆるやかなネットワークができてきました。しかし、一部の家族からは「お前はなにも変わっていない」とも・・・。むむむ、悩みながらもタフに生きていこうとしている32歳の私です。
☆開発彩子☆
 もはや忘れ始めているのが怖い。今年は演劇公演の音楽演奏者として5月から8月まで、韓国、イギリス、沖縄と旅をし、9月は北京でワークショップ。滅多にない好機を得ました。考えてみれば飛び飛びで3ヶ月くらいは東京にはいなかったみたいです。こう書くとなんだかカッコイーのですが実態はそんなものではなく、、、、怖いもの知らずの挑戦は自分としてはヨシ!と評価しますが、実力のなさを周囲のフォローでなんとか乗り切った感があります。
 そこで、来年のテーマは「技術」。海外に行ってわかったのですが、日常から離れようがどこにいようが自分からは逃れられないのですね。同様にどこにいようと自分は自分を助けてくれます。日々の地道な勉強、練習。努力。いまさら、嘘みたいなキーワードですが、やはりこれしかないのです ね、、、。具体的には楽器の演奏技術、英語、ほそぼそ続けてきたヨガの本気の習得が目標です。
 (目標なんて滅多にたてない私が)ここ十年単位で、あがきもがき、混乱しながら停滞しながら思考してきたことが統合されるような流れのきっかけが今年は明らかになった感があるのです。(おお!)まだ糸口をつかんだ段階ですが来年の仕事にそれが反映されるといいなあ、、、。飽きっぽく怠惰な私をみなさん見守ってください。
★花崎 攝★
 今年もとても速く時が飛んでいってしまいました。年末もまだ、ゆっくりふりかえるという時間がとれずにいます。
 今年亡くなったブラジルの演劇活動家、演出家のアウグスト・ボアールという人は、見るだけの受け身の状態を強いられる「「観客」ということばは悪い言葉だ」と言います。その意味について、たとえば世田谷水俣交流実行委員会で演劇を上演したりトークをしたりしながら、また大田区の「女性のための演劇入門講座」で さまざまな女性たちとワークショップをしたりしながら考えました。
 形式的な観客参加でなく、どういう可能性が、あるいは不可能性(危険)があり得るのか、今、進行中の世田谷パブリックシアターのワークショップについての連続講座でも、またあらためて演劇の機能やあり方について思うことがいろいろあります。
 来年は、もう少しゆっくり考えたり、整理したり、文章を書く時間をとりたいと思います。毎年、そんなこと言ってるって気もするけど…。
 今年もお世話になりました。どうぞ、よいお年を!
☆嘉仁ひかり☆
 今年もいろんなことがありましたが、周りの人たちに支えられて、楽しい一年でした。
 この一年で自分に出来ることと出来ないことが、少しずつ見えてきました。私にとって出来ないことのほうが圧倒的に多く、出来ることというのは、ほんのわずかです。その数少ない出来ることのひとつが、ワークショップの進行役として参加者に接することなのだとわかりました。そういえば学生時代、飲食店でアルバイトをしていた時、接客だけは店で一番だと言われたものの、他に良いところがなかったので時給が上がらなかったのを思い出します。
 人生を登山に例えるとするなら、スロースターターの私は、「え?まだそんなところにいるの?」と言われるような登り方をしていると思います。
 登山の途中で出会うたくさんの人たちは、私に一言二言声をかけて、追い越していきます。いつも背中ばかり眺めることが寂しいと思う時も、一度や二度ではありません。だけど、追い越していく人たちの群れは、いつでも楽しそうなのです。悲痛な表情で追い越していく人なんて、誰もいないのです。もしかしたら、出会う人たちを見送ることが、私の役目なのかもしれません。それは本意ではありません。しかし、役割というものがあるとするなら、そういうことだと思うのです。
 多分、私の考えや行動、思いには、誰もが認める"意味"なんてものはありません。だから人には私のことは、あまり伝わることがありません。でもいつか伝わればいいと思っています。私は自分に出来ないことは、放っておいてもいいことにしました。出来ることだけを、大事にしていくつもりです。

 

2008.12.25 今年をふりかえって 【福原忠彦】
世田谷で手書きのかわら版コースを担当したり、埼玉大学でお話をしたり、下北沢のシンポジウムのパネリストになったり、世田谷の障害者と芝居を作ったり、新たに自分の活躍の幅を広げた年でした。
中でも力を入れてきた地元葛飾区立石での活動は徐々に軌道にのってきています。11月には公募で集まってくれた参加者と地域資源のひとつである呑んべ横丁を取材してお芝居を上演することができました。地域での目に見える活動であるため、当日家族も見に来てくれました。少しずつですが、一向に安定しない息子の活動に理解を示し始めているように思います。
その反面、水俣での経験を本にしたいと思ったまま、一向にペンが進まなかったのが大きな反省です。助成金の取り方も失敗をしながらたくさん勉強させてもらいました…。
【すずきこーた】
ニュース番組ではないですが、今年をふりかえると、前半と後半で世界経済の状況が大きく変化したことが印象に残ります。
4月から7月まで、岐阜県可児市で、在日外国人たちと一緒に演劇をつくり発表をする事業に関わっていました。外国籍の親の仕事がなくなり「子どもの給食費が払えない・子どもに解雇されたことを話せない」といった相談を学校の先生が受ける、そういったニュースを見ると、あの時とは本当に状況が違っているなぁと、感じます。特に「研修」という名のもとに期間限定で来日している中国の人たちが今どのような状況なのか、時々考えさせられます。
12月、今年が終わろうとしているこの時期、友人の一人が入院しました。労働組合で活動している彼の病室は、毎日様々な友人・知りあいが訪れ、やはり経済について話をしているそうです。本来なら毎年行っている教会での演劇を今年は取りやめました。時間が無かったのと、一人が入院したという理由からです。労働組合で活動していて演劇もやっている別の外国籍の女性は言いました。「今は仕事がないです、でも、組合、ものすごく忙しいです」
それから、本当に個人的なことですが、4月に子どもが産まれました。バタバタとしていて、大変ですが、楽しい日々をすごしています。今の時期は本当に成長が早く、毎日出来る事が増えています。本人も親もそのことが嬉しいです。一方、ある時期にしかしない仕草、表情などがあります。二度と見ない動きや表情が、生まれては消えていきます。なんか、ワークショップや演劇に似てるな、なんてまとめてみたりして…。
来年も良い年でありますように。
【成沢富雄】
ついに、50代最後の歳になってしまったぞ。来年は、年男だ。還暦だー。なんだ還暦ってのは?要するに「めぐる暦」ってこと?ああ…と、このあたりは、来年でしたね。
今年は…8月までが、あっという間で、8月過ぎたら瞬く間に師走。なんだか、記憶がない。お金は、拾ってない。宝くじは、買ってないから、あたるわけない。
うーん、あっ、決算が済んでない!!たしか、今年の初めから「決算を処理しなきゃ」と意識していたがついにおわりまで来てしまった。どうしたらいいだろう…
丑年のなりさわ
【花崎攝】2008年も終わろうとしているとは、ちょっと呆然としてしまう今日この頃です。
今年は、ラップマム・プラスという集まりで、女性たちと芝居をつくりました。初演はコロンビア。私は行けませんでしたが、仲間たちが、コロンビア国際女性演劇祭に参加しました。帰国後、作り直して6月に東京公演。小さな会場でしたが、思いのほか多くの方が足を運んでくださいました。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました!来年は、東京以外の地域にも出かけたいと思っています。
夏は、インドネシアのアチェで2回目のワークショップを行いました。期間は短かったけれど、初めて紛争被害について具体的な話をすることができ、とても手ごたえのあるワークショップになりました。来年、いよいよ区切りとなる3回目のワークショップがあります。インドネシアでは、来年総選挙があるので、いつ開けるのか予断を許さないのですが、腹を据えて取り組みたいと思います。
後半は、10月に雑居まつりで障害のある人たちと「ザ・やすみつ」という芝居を上演。 そんななか、スタッフをしている野口体操の先輩がガンで手術をすることになり、代講をすることになり、他の仕事も重なって、ワタワタしているうちに、12月!
来年は、もう少しギルドとしての活動を組み立てて行きたいなと思っています。どうぞよいお年を!
【竹森茂子】
2008年はギルドで出会った女たちと、”ラップマム+”として演劇ワークショップを10ヶ月に渡りやることで「女たちのコラージュ」と題した芝居を創り上げたこと!若い力と経験を積んだ力が、女性の問題を中心にセンシティブな感性を具体的に演劇に出来たのではと思う。ギルドの男性陣の助けが嬉しかった!
3月にはコロンビアの国際女性演劇祭に参加したし、6月には小劇場で公演もした。おかげさまで、3回の公演は満員だった!すごい!(次は5回くらいやりたい)
11月にはコロンビアのパトリシア・アリサと、「女性のための演劇ワークショップ」を大田区のエセナおおたで3日間行う事もでき、 これは次の芝居つくりに発展する可能性も…?!
で、ギルドでは読書会を全員が1冊づつやったのでしたが、そこで話し合われたことが一見演劇ワークショップに関係なさそうで、実はそれぞれの生き方や考え方が立ち現れかなり正直にお互いを裸にしていた感があって、しかも節度もあったし〜、”話し合う”ということが楽しかった!これってなかなか出来ないことだと思うんですが…。私的にはすごくおもしろかったです。
ところで、来年もやっぱりギルドは貧乏の道を行くんだろうか?たまには、お金になる仕事も取ってこなくちゃと思うんですがね!今のとこ、そういうのはない!
【開発彩子】
ワークショップの企画や進行をする側になって、数年がたちます。2008年は自分自身がパフォーマンスすることに目が向いた年でした。他の人に、「やってみよう!」というだけではなくて「自分がやる」。ラップマム+の公演「女たちのコラージュ」。見に来てくださった方々からたくさんの反響がありました。
そして内輪の会でしたが、「アナアキ・ストッキングスブルース」での楽器とうた、語りの試みの会。小さな規模でも今後に発展していくといいな。楽器を練習したり、体操を教えてもらったり、、、、自分のからだに気づくこと。向かい合うこと。作品をつくるということに立ち向かうことは厳しいことだけど、来年もひきつづき、修練をつみたいと思います。ワークショップをおこなっていくためにも。
そして、なんといっても読書会。みんなで一冊の本を読み語ることは、こんなにも、広がりや深さをもつ、とてもエキサイティングな行為なのだと初めて発見しました。私が選んだ本を取り上げた会に、著者、いちむらみさこさんが、突然風のように現れたことは夢のように嬉しかった出来事です。ほんと、発見の場です。みなさんもどうぞ参加してみてください。
来年もよろしくおねがいいたします!
【嘉仁ひかり】
これまでしていた演劇ワークショップの企画制作に加えて、本格的に進行役の仕事やパフォーマンスをやるようになった初めての年でした。
前半はコロンビアで演劇をしたり、日本でも演劇したりしました。
そして後半は演劇ワークショップの企画や進行をちょっとずつしていたら、いつの間にか一年が過ぎてしまった感じです。アクティブな一年だったと思う反面、まだまだ表現者として自分のやりたいことは、全然できてないなあと思います。もっと自分の中から湧き出るものを、たくさんの人に見せたい。そのために、何か新しい試みをいっぱい仕掛けたいと思います。
また進行役として、自分にしかできない仕事がしたいと思う一方で、自分がいなくても大丈夫な場所をつくることが大事なんじゃないかと思っています。進行役が狂言回しとなって場を盛り上げるワークショップも面白いですが、その場にいる人たちの力で大きな創造ができれば、それが一番の理想です。進行役だって本当はその中の一人に過ぎないのです。
そう考えると演劇ワークショップの仕事っていうのは、畑を耕すのに似ています。来る日も来る日も、種が育つように畑を耕すことが、演劇ワークショップにできるすべてのような気がするし、私はそれをしてきたし、これからもしていくんだと思います。
それでは皆さま、よいお年を!

2008.5.15 成沢富雄
つぶやき 1

文化とは、何を意味するのか

政治・経済・社会・文化の中の「文化」

いまのところ、
日本の都市で言われているところの文化とは、それに関る人間にとって自己更新の機能を持つものだといえる。

触れることで、新しく認識を得る
出会い、生き方を再発見して、元気になる
自己の限界を修練により突破する
異なった体験をし、自己の経験領域が拡大する
経済社会の生産過程ではない、別の生産過程に触れ、自己の修練とする

大方は、個人に還元され、しかも「文化のありがたみ」として、測定される

集団の文化に、演劇の創作過程がすこし触れてくるが、それも分業化と専門家の領域から、ほんの少し、たれてくるお恵みのようなものがあればよいほう。
大抵は、結局専門家の専横に振り回され、振り回されている経験が、演劇作りの体験として定着してしまう、誤った理解があるだけだ。
ニナガワユキオが、朝日新聞で上演を止めたことを得意になってしゃべっているが、それがその最たるものだ。

アートマネジメント、文化振興の視野は、すべてこの文脈−自己更新という価値を称揚する方向で、すこしも他の視点がない。

成沢 富雄 なりさわ とみお

 

2007.11.25 すずきこーた
DV防止フォーラム2007
フォーラムシアター&講演 〜日常にひそ む暴力〜

 先日、11/10(土)に、With You さいたまにて、フォーラムシアターを行いました。雨の降るあいにくの天気でしたが、80名程が来てくださいました。

 私はこれまでいくつかのフォーラムシアターを行ってきましたが、 DVについてのフォーラムは初めてでした。ショーケースをつくっている時も「こんな感じで良いのかな?」と全体の構成を悩みましたし、「もっとコワイ感じにするには…?」なんて、いわゆる役作りみたいな事でも悩んでおりました(自分を養護するわけではないのですが、僕は人に悪口を言ったりするのが不得意だと思います……)。

 ショーケースは、大きくは3つのシーンで構成されています。

 1:若いカップル(まだ結婚はしていない。でもそろそろ…)の場面
 2:上のカップルの彼女の方が、友人に相談する場面
 3:別な夫婦の話。夫の(言葉の)暴力から逃げるため実家に帰ってきた妻の話

 1の場面では、色々プレゼントをするが、束縛したい彼が「俺の女だろ?」と言ったり、「他の男の電話番号などを、携帯のアドレスから消してしまう」などの場面をやりました。この時「反応はどうだろう?」と不安に思っていたのですが、場面が終わった時に見ていた人から「ムカツク〜」という声が聞こえ、変な話ホッとしました。「ムカツク〜」で「大丈夫だ!」と思ったのです。実際にフォーラムが始まると、様々な意見が飛び交います。「携帯を見せろ!」と彼に言われても「私を信用できないの?」と言うなど、ちゃんと言い返すやり取りが意見として出てきました。

 2の場面では、彼の事を友人に相談するのだけれど「何〜?結局ノロケ??」みたいな流れになってしまい、彼女自身も「そっか、私は愛されてるってことなんだ…」みたいに納得してしまう場面です。ちゃんと話を聞いてあげる友人をやってくれた人が多数出てきました。結婚してもろくな事がないから、早く別れろ!なんて過激な(でもすごく真当な)意見も出ました。

 3の場面では、「ちょっと位我慢しろ、それが妻の務めだろ」「彼(夫の事)は素晴らしい人じゃないか、若いのに都内にマンションまで買って」と全然理解してくれない父親が出てきます。夫の暴力から逃れてきたのに「早く帰れ!」と娘(妻)を追い返してしまいます。そこに「とっても娘に甘いお父さん」が客席からあらわれて「良いよ良いよ、いつまででもこの家にいてもいいんだよ」という意見が。それでは解決 しないかもしれませんが、父親の気持ちが現れた瞬間でした。娘(妻)にちゃんと言うべきだ、という意見も出ましたが、やはりなかなか親には言えない、という意見も沢山出ました。

 ただ時間が短くて、一つの事例にかけられる時間が少なかったのが残念でした。
 この文面では伝えきれないほどの盛り上がりを見せ、その後の川畑真理子さんの講演も、私たちのフォーラムシアターを汲み取ってお話をしてくださったので、参加者の方には分かりやすかったと思いますし、そして、何を考えるべきかを考えさせてくれる講演だったと思います。

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2007.10.21 福原忠彦

水俣に世田谷のゆうじ屋が出店!?

 去年、演劇デザインギルドは水俣病公式確認50年事業の中で、水俣に住む人たちと胎児性水俣病患者・障がい者の想いを伝える創作舞台『水俣ば生きて』を製作しました。
 今回、創作舞台のメンバーを中心に“水俣ば生きる会”を発足。楽しく生きるシリーズと銘打って9月2日に水俣市もやい館で第一弾の催し『ゆうじ屋のお料理トーク』を行いました。ゆうじ屋は東京の世田谷区に住む、自称「言葉で作る料理人」の実方裕二さんが運営しています。「スパイスはもっと多く」「もっと細かく切って」脳性麻痺で手足が自由に動かせない裕二さんは介助者に指示を出しながらカレーやケーキなどの素敵な料理を作ります。演劇デザインギルドからは成沢・花崎・福原の三人が参加、現地で制作や進行を手伝いました。


▲埋立地浸水護岸にて。裕二さんと成沢さんおじさんふたり

あわただしい日程の中、裕二さんの「海に行きたい」という願いが一瞬かないました。

「失敗をしてみないとわからない!」

▲卵を割ることに挑戦する坂本しのぶさん。徐々にコツをつかんでいきます。

午前中は『ゆうじ屋のだれでも楽しくできる料理教室』。

 胎児性水俣病患者や障害者の人たちと介助者がペアになって親子丼を作ります。親子丼は裕二さんがはじめて作って失敗した料理だそう。「失敗をしてみないとわからない!」裕二さんに励まされながら三つのチームが料理に挑戦しました。当初、障害者は指示をすること、介助者は指示を聞くことが求められたのですが、やり始めるにしたがい、自分で挑戦する胎児性の人や障害者が続出。慣れない手つきで卵を割ったり、野菜や肉を切ったり。悲鳴とともに嬌声も。仲間が頑張る姿に大いに盛り上がりました。昼食時にはあちこちで親子丼の試食しあう姿がありました。

いつもと違うレイアウトで

▲始まる前の様子

 午後はメインの『ゆうじ屋のお料理トーク』。約70人の人が参加。前日、「料理を出すところも見せものにしよう」「テーブルで食べられたほうがいい」たくさんのアイディアが出て、パーティー形式の会場になりました。お客さんもくだけた雰囲気で隣の人とおしゃべり。ゆうじ屋の紹介映像やトークを楽しみました。


▲去年参加した小学生もかけつけてくれました

中学生になった今年は身長ものびてちょっと大人に。
そもそもどうしてゆうじ屋が行ったかというと


▲裕二さんと長井さんの対談

 ふたりは言語障害があるので、聞いた言葉をそのまま、健常者が客席に伝えます。

 今年の2月に胎児性水俣病患者の長井勇さんが東京に来た際、裕二さんと出会い、水俣の人たちにも紹介したいという思いがきっかけで今回のイベントにこぎつけました。そこで、裕二さんと長井さんの対談も実現しました。長井さんの提案でおふたりの子ども時代のことを話し合いました。

ゆうじ屋名物漫才トーク!!

▲女子大生がたくさんいる客席につっこむ裕二さん

 介助者と息のあった漫才トーク。奇声を発し、車椅子のランプを点灯しながら、文字通り、暴走しまくる裕二さんに、介助者の三木さんが容赦なくつっこみます。会場は笑いっぱなし。裕二さんのパワーに圧倒されています。なにより、たくさん来てくれた胎児性の人や障害者の人が喜んでいたのが印象的でした。

ぼくがどうして料理を始めたかというと・・・

 最後に裕二さんの講演。こちらは漫才とはうってかわって真剣に。(いや、漫才も真剣でした。)裕二さんがいままでいろいろな人に出会い、自立生活、さらにはゆうじ屋を始めるに至った経緯を話しました。人にやってもらうことがあたりまえだと思っていた子ども時代。健常者の人との失恋。当事者運動との出会い。自分にできることは・・・。会場全体が裕二さんの言葉に耳を傾けました。

 終了後のアンケートに書かれた感想をいくつか紹介します。

 

・私たちも普段様々な人に手助けをしてもらいながら生きている。同じようにゆうじさんも介助をしてもらいながら生きている。一緒だと思った。自立というのは一切頼らないのではなく、上手に頼りながら自分で頼る部分を見極めながら生活していくことだと改めて感じた。

・ゆうじさんはユーモアたっぷり、アイディアたっぷり。「病気じゃないから」という言葉が大好きです。

・一生懸命聞いているとだんだんゆうじさんの言葉が聞き取れてきた。ひとことひとこと力強く話してくれてなんだか勇気がわいてきた。なんでもできるんだと。コンプレックスを壊していこう、私も頑張っていこうと思った。介助者もゆうじさんの言葉を正確に伝えてくれて、楽しくやっているようでよかった。

裕二さん、長井さん、みなさんお疲れさま


▲打ち上げの様子


▲疲れて眠り込む長井さん

今後は水俣のメンバーが東京に来る企画も準備中です。

 

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2007.10.20 すずきこーた

 10/6(土)〜8(月・祝)まで、仙台に行ってきました。日本演出者協会主催の「演劇大学in仙台2007」というところで、子どものWSをしてきました。
 会場は仙台演劇工房10-BOXというところなんですが、これがまた、WSの内容に引けを取らずに面白いところです。

 まずランドスケープ。卸町というところにあり、卸町という位だから、周りに企業の倉庫みたいなものが沢山あります。というか、それしかない。住宅は一つも無いので夜は本当にコワイ。しかも仙台駅からバスも少なく、その上タクシーで行っても20分くらいかかるところ。そこに10-BOXというくらいなので、10個の大小様々なスペースを演劇活動の拠点として使われているんです。余っている別な倉庫(本当に倉庫のまま)を利用して演劇上演をやっている場合もあります。

 財団法人 仙台市市民文化事業団が運営しているので、様々な劇団が交流できる場でもあります。10個のスペースは稽古場だけでなく、大道具用作業場、会議室のような部屋、チラシ折り込み専用の部屋、など様々で、稽古場以外は無料で使用する事が出来ます。作業場も電気機材以外は無料貸し出し!

 別に僕は10-BOXの人ではないので、宣伝を過剰にする必要はないのですが、とても魅力的なスペースだったので、一度訪れてはいかがでしょうか?

http://www.gekito.jp/

 さて、肝心のWSですが、最終日にハプニング続出。3年生の子が、歯が抜け、その抜けている最中(ってへんな言葉ですね)に血をいっぱい飲んでしまい、気持ち悪くなってダウン(トイレでもどしてました)。
 4年生の子は、雨が降っていたので地面が滑りやすく、トイレに行く時頭を打って転倒!
「ああ、もう発表会は出来ない…」
と思っていたのですが、3年生の子が「バレエの発表会の直前に、足を折って出られなかった。演劇はやりたい!」と2時間位寝ていたのに、本番では復活(その間の代役は、もちろん僕)!
 その熱意を感じたのか、4年生の子も「全部は出来ないけど、ちょっとだけでもやりたい」と出演!

 ああ、良かった。別に発表会自体ができなくても僕は構わなかったのですが、「できない」という子どもたちの悲しい顔をみて別れるより、「やった」という嬉しそうな顔を見て別れられた事が、本当に良かったと思います。

 

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