これを書いているのは第6波の真っ最中です。対面でのワークショップや授業がどんどん中止・延期になっています。マスクをしているし、極力接触なしでワークショップを行っているとはいえ、ここまでの3ヶ月は「なんて幸せな時間だったんだ…」と思います。コロナ以前だったら「マスクで顔が見えない〜!」と一年中マスクをしている学生たちにヤキモキしたものですが…。
私自身、オンラインでの活動も増えましたが、子どもたち(ここでは特に小学生を想定してます)もオンラインでの活動に、いやでも順応していっています。そのことについて今日は考えます。
先日、小学校(2年生)の授業で、演劇的な活動をしていたのですが、その時一人の児童が「演劇とか、こういう活動が苦手だから、見ていても良い?」とこっそり聞きに(伝えに)きました。私は基本的に「無理にやることはない」と考えているので「良いよ。座って見てる?」と聞くと、そのまま教室のはじっこの方で見ていました。
これはすごいことだと、私は思います。
※この記事は、2022/1/31にnoteに掲載したことを転載しています。
【41】-1 「安全な場」と「表現」について
このような時、多くの場合、私や担任の先生・クラスメイトに何も言わずに、傍から見ると「不適切」な行動をとります。ただ能面のように表情を失ってグニャグニャしている、クラスメイトや同じグループの人がやっているところの近くでただ突っ立っている、床に貼ってあるテープをはがしたりくっつけたりしている、クラスメイトが声をかけても返事をしない、逆に一生懸命グループ活動で演劇をつくろうとしているクラスメイトの邪魔をする、というような感じです。
これは言い方を変えると、「自分は心地よくない(やりたくない)が、どうして良いか分からないから(または、自分の気持ちも分からないから)、その場で行われていること(起こっていること)とは違うことをしてしまう」という、自己主張というか、自己表出(こんな言葉があるかどうか分かりませんが)だと思います。
「主張」とは「表現すること」です。言葉なり動きなり、何某かを他の人に伝える行為です。
でも私は思うのですが、他の人を意識しないで出てくるもの「表出」の方が、「表現」することより豊かな場合が多いです。なぜなら、他の人を意識しないので「安全な場」に立っているからです。
他の人を意識した「表現」になると、特に普段演劇をやっていない人は「表現する」ことを過度に意識して、緊張して上手くできなくなってしまったり、逆にやり過ぎてしまったり、どこかで見た「ウケを狙う」表現になってしまったりすることが多くなります。
それは「ちゃんと自分を伝えよう」「ちゃんと受け止めてもらおう」「自分を素敵だ(面白い、上手い)と思われたい」という気持ち(欲求)があるからです。それは人間としてあるべき欲求だと思います。
そんな欲求を「表現する」ことでクリアできれば良いですが、「表現する」ことには少なからず緊張感がありますので、いつも上手くできるとは限りません。
一方「表出する」というのは、見ている人を意識しないで、本人の思うままに動いたり言葉を話したりします。
例えば鼻歌を唄っている時(お風呂の中など?)は、とてもリラックスして気持ちよく唄っています。でも、それを誰かに聞かれた途端恥ずかしくなったり、「上手いね」と言われた途端に唄えなくなってしまったりします。
こんなことがありました。
以前、中学校でワークショップをした時に、5〜6人のグループの中で非常に活発に意見を言い、素敵なアイディアをたくさん思いつき、演技がとても素晴らしかった生徒がいました。しかしその生徒は、他のグループに発表する時には、自分ははじっこの方、後ろの方にいて、目立って演技をすることはありませんでした。
「表出」は一人の時だけとは限りません。仲間と同じ目標に向かっている時は、頭の(気持ちの)中では「表現」していると感じていないのでしょう。
しかし他のグループに対して発表する(表現する)というのは全然違うことで、そのことに対して「安心・安全」な場ではないと認識し、演じることを避けたのだと思われます。
この中学生のように、自分の気持ちが把握できていて、それにどのように対応すれば良いのか分かっていれば、どう行動すれば良いか分かります。でも、低学年のように経験が少ないとどのように対処して良いのか分からず、ただグニャグニャしたり、他の児童にちょっかい出したり、暴力的な行動を取ったりしてしまうのだと、私は考えます。
マズローの欲求五段階説を持ち出すこともなく、人間は承認欲求や社会的欲求より前に、安全であることを欲します。「表出」するのは誰にとっても安全な場で行えますが、「表現する」ことについては、安全な場だと感じる人と感じない人に分かれます。それが行動に現れます。
※反対に、「安全な場」ではないからこそ表現する必要があり、安全な場を勝ち取る必要がある場合もあります。
前出の「演劇とかこういう活動は苦手」と言った児童は、どこが安全な場であるかを認識していて、どうすれば良いかを知っていたからこそ、私に伝えてきました。でも実はこれは、ちゃんとした「表現」だと思うのです。
「表現する」というと「何かをする」ことだと思いますが、「何もしない」という表現も、特に演劇ではあります。「何もしない」という表現は、「何かやっている」表現と同様に受け止める必要があるかと、私は思います。
【41】-2 「個」を尊重すること
言うまでもなく、コロナ禍では、それ以前と違うことがとても増えました。良いことでもあり、良くないことでもあるかもしれませんが、これまで以上に「個」を大切にする(尊重する)ようになったと思います。
例えば、多くの人が言っていますが、「不登校だった児童・生徒が、オンラインの授業なら参加できるようになった。しかも勉強はすごく出来る児童・生徒だった」というようなことがあります。
それまでは学校に行くしか勉強する機会(というよりも、卒業するという資格)を得られないことが多かったと思います。保健室登校など、出席日数を確保して義務教育を終わらせることはあったと思いますが、学習の機会を担保することは難しかったでしょう。
不登校の児童・生徒は「安全な場」ではないと感じ、それに対応していただけだと思うのですが、それに対応する術が無かった、本当はあったのだけれど先延ばしにしていたとも言えます。
誤解のないようにお伝えしますが、不登校に関して、私は先生や学校を批判しているのではありません。私だって何も出来ていないですし。ただ、その時その時で、先生や学校、保護者を含む大人たちはみんな頑張っていたし、大変な思いをしていたと思います。一番苦しんだのは学校に行けない本人だと思います。ただ、結果として、そのような状況だったのだと思います。
しかしコロナ禍で、ICTが急速に普及し、学校に行けている児童・生徒も、不登校の児童・生徒もある意味では平等になりました。誰も学校に行けない、でも学びを続ける必要がある。これに対応するために、これまた先生や学校、行政、各家庭が大変な苦労をして、現在に至っているわけです。その結果、不登校だった児童の学習機会が確保されたわけです。
このことは、本当に良かったことだと思っています。
そして少しコロナが収まり、学校などは普通に活動しているように見えてきましたが、今の第六波がやってきました。ここでは、学校だったり地域だったり、行政区分だったり様々ですが、対応が違います。
オンラインの授業に切り替えた学校、分散登校にする学校、保護者や本人の判断で登校する児童・生徒とオンラインを選べる学校、などなど様々です。
これも、特に「自分で選べる」という選択肢をもらえたのは、非常に喜ばしいことだと思います。
でも、そんな今だからこそ、考える必要があると思うのが「グループワーク」だと、私は思うのです。
【41】-3 グループワークを考える
これまでは「学校に行く」「学校に行かない」という選択肢は考えられませんでした。実際は選択できたとしても、不登校を選択した児童・生徒には相当の負担があり、ともするとこれからの将来の選択肢が狭まります。その負担を不登校の児童・生徒や家族に背負わせていました。
しかし、その部分が少し緩くなったように思います。そして、「学校に行くべきだ」という大きな部分が揺らいだため、「あれ?他のことでも、自分が選んで良いのではないか?」と思う人が増えた(または増える)のではないでしょうか。
しつこいようですが、このことは歓迎されるべきです。個人の気持ち、特に「安全な場を確保する」ことに関しては、「個」を尊重すべきだと思います。
しかし「個」を尊重するあまり、グループワークが成り立たないのではないかという心配があります。
でも私は思うのです。グループワークが成り立たないと心配すること自体を、根本から考え直す時にきたのではないかと。
グループワークは「グループの意見をひとつにまとめる」ことでも、「仲良くなる」ことでも、ましてや「グループの多数である意見を選び、それを全体の意見として提出する」ものではありません。
埼玉大学の岩川直樹先生が、雑誌「演劇と教育」2013年6月号(No.655)でもおっしゃっていますが、グループワークは「意見や思考を交流する」ものであり、意見や振るまいなどの「情報のそこに横たわる一人ひとりの子どもの葛藤や願望や抵抗や貢献」を無視して行われれば、「形骸化し、むしろそれによって『学び合い』が阻害される」のだと思います。
どのように他者を受け止め、自分を受け止め、安心できる場でいられるかを担保し、みんなが幸せになる方法を考えていく、なんて、神様でもできないような気がします。
でも、ここで「どのようにグループワークを進めていくか」と真剣に向き合い、どうしたら良いか考え出さないと、グループワークという概念は崩壊し、徹底的に「個」が優先される世界が待っていると思うのです。
私は、「個」でいることは大好きです。安心できる場でもあります。でも一方で「他の人のことも知りたい」と思います。裏返すと「自分のことを伝えたい」ということなのかもしれません。
バーチャルの世界でも他者と知り合うことは出来るかもしれないけれど、できれば息づかいを感じたい、握手やハグをしたい、と思います。ハイタッチをしてよりこび合ったり、肩を組んで笑ったり、誰かの胸を借りて泣いたり、私にはそんなことが必要です。それが私にとっての「安全な場」であると思うからです。
私に同意できない人もいると思います。でも、徹底的に「個」になると、「個」であることしか選択肢がなくなるような気がして、そこに対して不安を感じます。
くり返しますが、私は「個」であることも大切ですし、「グループ」でいることも大切です。どちらも安全な場であるために、私たちはコロナ禍においてどのようにグループワークを進めて行くかを、もっともっと考えなくてはならないと思うのです。
一人ひとり違う「個」を集めて、グループとしての意見をまとめるのではなく、限りなく「個」を大切にし、その「個」が活かされるために、グループとして何をすべきかをグループで考える、というのが、時間がかかりますが、これから求められてくるでしょう。
そして、とても大切なことは、オンラインと対面を分けて考えるのではなく、どちらの場合においても「グループワーク」を諦めずに、進めて行く必要があるのです。